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百年駅弁。大船軒〈前編〉

百年駅弁。大船軒

 ここに一枚の写真があります。看板には「大船駅 大船軒弁当」とありますが、どう見ても大船駅前の売り場には見えません。この写真、85年前の昭和6年(1931年)に撮影されたもので、場所は由比ガ浜海岸か鵠沼海岸のようです。前年の昭和5年3月、正式に東京~横須賀間の長距離電車が登場し、スピードのアップと運行本数の増加によって一泊二日での鎌倉への観光が日帰りでも楽に可能となり、それまで以上に多くの観光客が訪れるようになりました。

 大船軒は夏場の海水浴シーズンに合わせ、海岸にこのような「弁当出張販売所」(海店)を期間限定で出店し、いろいろな弁当だけでなく自社工場でつくった「アイスクリーム」なども販売していたようです。

 看板には「おみやげにアイスクリーム 長時間保証」とあり、どのような容器に入れて皆さん持ち帰ったのか興味が湧いてきます。そして何よりも目を引くのが三輪の自動車です。クルマに関して詳しくないのですが、ある資料によると昭和6年にマツダが国産第一号の3輪トラック「マツダ号」を製造・販売をしています。もしかしたら作りたての弁当をいち早く運ぶためであることはもちろんですが、観光地での話題作りや知名度のアップといった広告効果を考えて導入したのかもしれません。近頃ではほとんど使われなくなってしまいましたが『進取の気性』という言葉がふとアタマに浮かんできました。時代を先取りする大船軒の経営哲学といったところでしょうか。この一枚の写真からも読み取れるような気がします。

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駅弁のはじまりは駅前旅館から

 大船軒の歴史は、日本の近代化の歴史ともいえるかもしれません。明治20年(1887年)に東海道線が国府津まで延び、大船に出来た信号所は翌21年には駅に昇格。更に翌22年には横須賀線が開通し、大船駅は東海道線との分岐点として交通の要衝となりました。それを待ちかねたように、大船軒の創業者・富岡周蔵氏は、明治22年に東京からここ大船に引っ越しをし、当時の玄関口であった西口駅前に旅館を開いたといいます。

 各地の名だたる駅弁のはじまりは、こうした駅前旅館からというお話を伺いました。今と違い、そう簡単に外食がままならなかった時代、旅館の宿泊客には弁当を持たせることも多く、そのうちに駅構内でも販売するようになったのが駅弁のはじまりではないかということです。鉄道の発達や時代の流れを見据え、富岡氏は明治31年(1898年)に大船軒の営業を開始し、大船駅構内での弁当販売を許可を得ることとなります。ちなみに、最初に申請した販売品目は、弁当(12銭)鮨(並・7銭)お茶(3銭)ラムネ(3銭)玉子(2銭)梨、りんご(2~6銭)食べ物以外では、渋うちわ(2銭)扇子(3銭)などがあり、なんとなく当時の鉄道を利用する乗客や車内の光景がしのばれます。(ラムネってこの時代にもうあったのですね。おどろきです。)

昭和6年(1931年)に建築された大船軒の本社ビル。昭和モダニズムの建築様式をそのままに、一階は〈茶のみ処・大船軒〉として営業中。是非、お立ち寄りください。

〈茶のみ処・大船軒〉に展示されている当時の駅売りをほうふつさせる木像(日本木彫協会会員・内藤四郎作)や、駅弁には欠かせなかった貴重なお茶のセットがご覧いただけます。

 富岡氏は、義父の関係で親交があった黒田清隆侯(北海道開拓長官や首相を歴任)から、アメリカやヨーロッパを外遊中に食べた「思い出の味・サンドウィッチ」を駅弁として売ってはどうか、という薦めもあり、明治32年(1899年)2月、大船駅において日本で最初の駅売り〈駅弁 サンドウィッチ〉の誕生となりました。今でいういわゆる〈ハムサンド〉で、一折に9個が入って20銭と、他の弁当などと比べるとかなり高価であるにもかかわらず、大変な人気となったそうです。まさに「文明開化の味」としてもてはやされたのでしょうか。

 当初は、輸入ハムを使用していましたがそれだけではとても間に合わず、ついに自家製造に踏み切りその結果「鎌倉ハム富岡商会」として現在に続いています。

 

左の二つが発売当時、次が昭和3年ごろ、一番右が最近のパッケージデザインです。尚、大船軒では現在「駅弁サンドウイッチ」の製造は行っておらず、系列の日本レストランエンタプライズのグループ会社で行っているそうです。ハムはもちろん富岡商会の鎌倉ハムを使っています。

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〈サンドウィッチ〉と並ぶ名物駅弁を

 大船軒の〈駅弁 サンドウィッチ〉人気は鉄道網の発達に伴い、全国各地の同業者も同様の駅弁を販売。これには富岡氏も驚き、自ら全国を回りその時に集めた〈駅弁 サンドウィッチ〉の掛け紙が今も保存されています。当然ながら、ピーク時の売り上げは望めず、大船軒としては新しいヒット駅弁の開発が必要となってきました。そしてそれは、相模湾で大量に獲れていた良質の鯵に着目したことからはじまったといいます。今ではとても想像できないことですが、大正時代、神奈川県は全国一の鯵の漁獲高を誇っており、なかでも相模湾では「鯵が湧くように獲れた」という記述も残っています。地元である相模湾で獲れる新鮮な鯵をなんとか多くの人に愛される駅弁に出来ないかという富岡氏考案の弁当を完成するまでに様々な試行錯誤が繰り返されたようです。

 その結果、駅弁ならではの“おいしさの長持ち”と“食べやすさ”を追い求め、関東風のにぎりと関西風に押して仕上げる製法に辿りついたのだそうです。ネタは相模湾で獲れた小鯵を独自の合わせ酢でしめ、シャリは江戸前寿司の伝統である赤酢を使った〈鯵の押寿し〉は、大正2年に1折15銭で販売を開始しました。発売当初の商品名は〈お志すし〉となっており、経営者のお客様に対する思いがこのネーミングからも感じられます。

:大正3年の〈鯵のお志すし〉の掛け紙。

:それを刷った版木。3枚の版木がセットですが、現存しているのは2枚だけです。



:掛け紙には大船周辺の観光名所が印刷されていました。玉縄城跡や今泉不動もあります。
:大正7年の掛け紙。価格が25銭と上がっています。

 身の引き締まった小鯵だけを使い半身で一握りという贅沢な〈鯵の押寿し〉は、時からの都市部における中産階級を中心とした旅行ブームもあり、富岡氏の狙い通り〈サンドウィッチ〉を超える大人気駅弁となりました。昭和15年(1940年)、第二次大戦がはじまり製造の中止を余儀なくされるも、戦後の昭和27年(1952年)には再び製造・販売を開始し、今も常に駅弁売上の上位にランクされ「百年駅弁」の名にふさわしいロングセラーを続けています。

~後編につづく~

写真  関戸 勇
記事  村川邦衛
デザイン  小野勝彦

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